発達障害児を育てる私もグレーかも。日々の思いを綴る日記

散々周りの友人から「普通だよ大丈夫!」と言われた我が子が発達障害児でした。ASDとADHD知的障害のある6歳の息子の過去と現在。生活の苦悩を綴っています。そして、グレーかもしれない私の毒親育ちの振り返り日記も綴っています。母を許せなくても母とは仲良くしている現状。

母と私の生きてきた日々

私の一番最初の記憶は

かなり古い。

 

まだ赤ん坊の頃の

うすーい記憶。

 

親戚の家の近所に

九官鳥がいてそれを

抱っこされて見に行ったのが

 

人生で一番古い記憶。

次に、まだお座りが

出来る時期、

祖父の経営するフランス料理店の

レジ横の簡単なバックヤードで

私はいた。

 

扉を開ければすぐに店に出れるぐらい

だが、私はまだハイハイが出来ず

出られなかったのだろう。

 

私の周りにおもちゃがたくさん

置かれて囲われている中に

一人遊んでいた記憶。

 

母は祖父の店の手伝いをしていた。

ウエイターとして

お客に料理を運んでいたのだ。

 

祖母はウェイター兼レジ。

時々レジを打ちにくる。

 

その時私は構ってほしくて

祖母に言葉にならない声を

あげてみたり、手で祖母のズボンや

エプロンの裾を小さな力ない手で

ぎゅっと握っていた。

 

でも、忙しくて相手にされない。

 

母も同じくそうだった。

 

 

それでも私は幸せだった気がしてる。

 

その頃の私は今のような深い闇の

傷など感じることもない。

 

無であり幸せな時を

過ごしていたに違いない。

 

辛い記憶や色合いは

感じれないからだ。

 

 

 

私は未だにそうなのだが、

感受性が高い。

 

感受性が高い人は

赤ん坊の記憶があったりすると

聞いたことがある。

 

発達障害児もそうだと聞く。

うちの子も胎内記憶があるから

かなり信憑性は高い気がしてる。

 

 

感受性が高い人は敏感である。

私は様々なことに敏感で

敏感ゆえにそこに触れれないことも

多く、ついついスルーしてしまう。「冷たい」と人に誤解されることもあった。

 

 

冷たいといわれればそうなのかも

しれないが、私からすると

 

怖くて怖くて仕方なかったのだ。

それを顔で表すこともなければ

態度でも表すこともない。

 

ポーカーフェスなのだ。

 

だから端から見たら

冷たい人と見えてしかたのなかった

のかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

そんな赤ん坊の頃の記憶を経て

 

3歳、4歳の記憶になる。

 

この頃から

私の家は崩れ始めた。

その記憶が鮮明で、

思い出すだけで苦しく、

幼い子供には厳しい環境

だったことが分かる。

 

 

 

 

つづく